心臓という人格

心臓だけが自分ではないと感じる時がしばしばある。特に何か起こったわけでもないし、それによって感情は動いていないはずなのに、なぜか心臓だけが妙に緊張してちくちくと刺されるように痛くなる。普通に病気を疑ったことさえある。この前の健康診断の心電図でなにも問題なかったからなにも問題はないのだろうけど。平穏に過ごしたい。実際に目の前では平穏な世界がある。平穏ではないのかな。どうなんだろう。でも自分はとりあえず平穏だと思うことにしている。それでも心臓がそれを邪魔してくる。平穏でいたい自分も平穏と思いたい世界も、実際に痛みを伴って早まる心臓によってかき消されてしまう。苦しい。痛い。止まってくれ。いや、止まらなくてもいいからとりあえず落ち着いてくれ。幾度となくそう思った。

少しずつ自分にも他人にも興味が薄れ、少しずつ感情の動きもなくなってきた事実に心臓だけが孤独に対抗しているように感じる。そんなに頑張らなくていいのに。わかった気になっているだけかもしれない。自分の取り扱い方も世界の見方も、なんとなくわかってきた気になっているだけで、本当はなにも自分のことも世界のこともなにもわかっていない。そのことに心臓だけが気づいていて、それを伝えてくれているのかもしれない。感情が動いていないこと、今この状況を平穏と思っていること、そのことに対して心臓だけが違うだろうと言っている気がする。そうは言ってももうある程度仕方ないこともあるんだから少し諦めてほしい。

死にたいと思った毎日も感情が薄れていく最近も心臓は止まることなく、むしろ警鐘を鳴らし続けてくれていて、そのことにいつか感謝する日がくるのだろうか。いつくるかわからないいつかに向けて精一杯動き続けている心臓のために頑張ろうと思える瞬間がくるのだろうか。きっとその時は心臓のほうがもう疲れているのかもしれない。だとしたら、心臓のために明日から頑張ろう。健気に毎秒動き続けるこいつに報いてやらないと可哀想だ。

 

 

そんなこと思えるはずがない。

いつまでも