暗い部屋で思うこと

臆病な自尊心と尊大な羞恥心という言葉が山月記に出て来る。高校の時の現代文で読んだ。当時は意味がわからなかったし、そのあと山の中で虎になってしまうのも意味がわからなかった。まあ虎になるのは今でもなんの暗喩なのかピンときてないところはあるけど、ただ、臆病な自尊心と尊大な羞恥心という言葉は、なるほど自分の人生の失敗の理由が一言で示されていると、大学生の時に痛感した。

どこのどのタイミングかは覚えていないけれど、飲み会ではしゃぐこと、授業をサボってダーツに行くこと、異性と話すこと、アルバイトを楽しむこと、サークルでバーベキューをすること。なにかずれている、なぜなんなんだろう、わからない。楽しいと思われているものがなぜ楽しいのかわからない。みんながやりたいと思ってることをなぜやりたいのかわからない。

みんなが楽しんでいるのを斜に構えて揶揄することでその価値を下げたいのか。そこにうまく混ざれない自分を守っているのか。みっともないと思うことで、自分はそうでないと信じたいのか。そういったものは、自己防衛を通り越してもはや自分の人格そのものになってしまった。自分を守るために誰かを小さく揶揄する。誰かの楽しみを、幸せを、喜びを鼻で笑う。だっさ、と。それは自分の中に尊大な自尊心を作り上げた。人の没頭や熱中を嘲笑すればするほど、自分がその人たちよりも価値のある人間なんじゃないかと錯覚する。その錯覚のために他人の目を極度に気にするようになり、そして失敗を恐れた。あいつらとは違う。飲み会ではしゃいで馬鹿かよ。同化できない自分に対する劣等感の昇華として、周囲を揶揄し価値を下げると、自分が相対的に優れていることなる。そしてそのなんの根拠もない、あるはずのなかった優越感は挑戦や失敗をとことん怖がった。みっともない、ださいと思われたくないから。そうなるとあいつらと同じになってしまうから。それは即ち自我の崩壊だった。そんな気質で失敗から逃げ続けてもいつかは否応なく一斉にスタートライン立たせられる。社会は無情だ。いや、無情ではないかもしれない。ただ平等なだけ。

失敗する。大きく。何度も。その度に命が削られるのを感じる。でも、それは小さくて数少ない失敗なのかもしれない。尊大な羞恥心によってそう感じるのだと思う。恥ずかしいんだ。失敗が。みっともないと、あいつは無能だと思われるのが。

悩み、疑問、違和感、考えすぎな性分はすべて臆病な自尊心と尊大な羞恥心という言葉に帰着する。すっぽりと。そんなもの高校生に読ませてくれるなよ。

今日も失敗した。命が削られるのを感じた。

家に帰る。まっくらで誰もいない部屋。