箱に押し込んだもの

家族や親子がモチーフにされたものは意外と街中に溢れている。モチーフにしたものというより、家族や親子そのものが街にたくさんいる。すごくたくさんいる。子供を保育園に送っていくお母さんお父さん、子供を自転車の後ろに乗せて走るお父さんお母さん。当たり前の光景。むしろ幸せな光景のはず。微笑ましいなと思っていた頃の自分も実際にそっち側だった自分ももういなくなってしまった。その環境に置かれた今、目に入ってくるこれまで微笑ましいと思った光景はなんともグロテスクに感じてしまう。グロテスクとは少し違うか。反射的に目を背けてしまう。目に入るその光景に対して自分が何かを思うまでのほんのすんでのところで、目を逸らしイヤホンのボリュームを上げて早足になる。直視できない。直視して頭がなにか考えてしまう前に違う何かで押し潰してしまわないと、本当におかしくなってしまうような気がする。気がするというのは、なんの根拠もない話ではなくてなく、目や耳で知覚したことが脳に到達するまえ、そのずっと前に心臓が反応してしまう。ぎゆ、ではない。パキ、でもない。ピキっとしてスーッとひっかかかれるような。針を何本か心臓にさされたような感覚になる。感情が暴れて全身に症状がでることは、それはそれで嫌なことなのだけど、それよりも心臓に直接チクチクと針を刺されていく感覚の方がずっと不快で辛い。

きっと世の中にこんな人は多いのだろうなと思う。一時の幸せを享受したものの、それを手放さなければいけない。その幸せだった一時に享受したものが大きければ大きいほど、それをなくしてしまった時の喪失感や条件反射で心臓に刺さる針の数も頻度も増えていく。信号で手を繋いで待つ親子。微笑ましかったその光景を見て今まっすぐに頭に浮かんでくるのは、やめてくれ。という言葉。見せつけようともしてない、もしかしたらすごく大変と感じてしまっているのかもしれない。そんな光景を目にして、やめてくれ。と思ってしまう自分に心の底から辟易する。妬ましいとか羨ましいとかそういう感覚ではない。かつて自分が当たり前のように享受していた幸せはもうここにはなくて、その孤独も大きな箱に入れて開けられないよういくつも南京錠をつけて奥の奥の方にしまっていた。それが容易く開けられて、夕方手を繋ぎながら散歩をしたこと、公園でお菓子を食べたこと、ご褒美にコンビニでアイスを買ったこと、もうしまっておかなければ心臓が破裂してしまいそうな光景が一気に心の中を占領する。苦しい。ただただ苦しい。この苦しさへの対処法はまだ見つかっていない。だから、ただ苦しいと思うしかない。

シルバーラックに貼られたアンパンマンのシールに目を留める。数秒動けなくなる。奥の方へしまったはずの箱やそこにつけたいくつもの南京錠はそれほど大きくもなければ強力でもなかった。

心臓に針が刺さる。痛い。

暗い部屋に響く小さな悲鳴。