何も思えない

学生時代は満員電車が嫌いだった。こんな状態で毎朝毎晩会社と自宅を行き来するなんて考えられないと思った。学生時代だけじゃない。学生が終わってもそう思っていた。ロボットのように駅を同じような恰好で同じような顔をして歩く人たちを見て、それを蔑むような気持ちも確かにあった。何が楽しいんだろう。自分はこうはなりたくない。当時は自然にそう感じてしまう自分に対して選民意識や優越感があるんじゃないかと嫌気がさすことが度々あった。あぁ拗らせているなあと。でも、きっとそうじゃない。そうなれそうもない自分の劣等感に向き合うよりはマシだったんだと思う。毎朝同じ時間に起きて同じ格好をして同じ場所へ行き同じことを繰り返す。自分には到底できそうもないことを数年、数十年と繰り返す人々と自分との間にある隔たり。その大きさを直視することは、自分の未熟さと向き合うことと同じだった。あぁ選民意識気持ち悪いなあと思う方がまだマシだった。

数年が経ち、自分がその人々と同じ毎日を繰り返すようになった。心身共に辛さはあったけど、それも少しすれば慣れてくる。満員電車で押し潰される。その時自分もまた誰かを押し潰している。自分が最悪だと思っていた満員電車を構成する一因に自分もなっている。すみません。申し訳なく思う気持ちと同時に、劣等感の隔たりを超えた達成感を抱く時期もあった。働くこと、それに付随すること。それら全てが苦手だと思っていた自分が、それを乗り越えて挑戦している。すごい。えらい。家族のために頑張っている。そう思っている時期は確かにあった。

しかし今はもうそれさえも感じなくなっている。何も思えない。本当に空っぽの伽藍堂みたいな自分を電車が運んでいくだけ。辛くもなければ嬉しくも申し訳なくもない。何も思えない。どこを見て誰を押し潰し、誰に見られ誰を苛つかせているのか。そんなこと一切考えなくなってしまった。こんなふうに鈍感になること、そして多数派として生きていること、それを過去の自分は成長と喜ぶかもしれない。でも、思えないんだよ。思わないんじゃなくて。嫌悪感や劣等感、達成感その他諸々、昔の自分だったらこの状況に対して数えきれないほどの感情が湧き上がっていた。それがいま、感情が形を持つ前にすっと消えてしまう。種のような結晶のようなものが浮かんでくるのを感じるけど、それを掬い上げる前にすっとなくなってしまう。疲れるんだろうな。感情を形にする脳はどの部分を使っているのだろう。その部分が疲れてしまったんだ。どこかわからないその一部が暴れ出し幾度となく苦しめられた。いい感情も悪い感情も、自分の心で受け止めきれずに他の場所に歪みが出る。動悸がして、手足が痺れ、眩暈がする。その度にすぐに薬を飲んだ。効き目が感じられなかったら2錠3錠と飲んだ。そうすると、感情を形にして全身に振りまいていた脳の一部が明らかに鈍化するのを感じる。その部分だけラップに包まれできるような感覚。もちもろん体にも力が入らなくなる。それでも感情に振り回されるよりよっぽどよかった。いや、良い悪いという話ではない、感情に振り回されないよう薬を飲まないと、そうしないと折れてしまうことはわかっていた。パキッと。だから薬を飲み続けた。用法も用量もよくわかっていない。でも、これしか頼る術がなくこうしていくことでしか生きていけない。ただ生きるためだった。

しかしそんな状況にも慣れてくる。薬でラップをかけていた脳の一部は薬がなくてもラップをかけたままになった。何も思えない。心のどこかで寂しささえ感じている。鈍感になって強くなるというのは違う。あの時最悪な感情に飲まれ早くなる鼓動と浅くなる呼吸の中で見た車窓からの景色や雨の色、タバコの味はきっと2度と感じることはできない。ほんの一粒くらいの切なさがある。それが今自分がなんとか感じられる本当に最後の感情なのだろうと思う。

ここまできてようやくあの時見たサラリーマンたちの表情を理解する。そのなかにある一粒の感情を大切に、今日も満員電車で帰路につく。

暗い部屋へと帰る。