事態

事態が進展したような気がする。

気がするだけで本当に進展したのか、何か変化があったのか、自分には知る術もなければ知ろうとすることさえ許されていない。ただ、確実に訪れるその日を怯えながら過ごすことしかできない。

それ自体は1年近く前から同じような状態だった。怯える。苦しい。呼吸が浅くなって、心臓を強く掴まれたように動悸がする。足の先が痺れてくる。その度に薬を飲んで思考にもやをかけることで、考えることを止めた。それは生活があったから。頭では考えない方がいいと、考えればしんどくなるとわかっていても、そう考えている時点で事態の一端を曖昧にでも見ているのだと、意識的に考えることを避けようとしている時点で避けられていないということを、体が何らかの症状という形で自分に教えてきた。それでも、生活は続く。続けなければいけない。それは自分にとってほとんど那由多の彼方にあるような可能性を繋ぎ止める唯一の術だった。生活を続ける。止めることができない思考に支配されながら、ほぼ反射のように症状を出し続ける体で電車に乗り、オフィスへ向かい、仕事をし、帰宅する毎日が、その毎日だけが事態を好転させることができる希望だった。

210錠。

ひと月に処方される抗精神薬。この生活を続けるために自分にはその量が必要だった。でも、ある時から事態全体が自分の生活から切り離されていくように、思考と生活が切り離されていくのを感じた。楽だった。目を背けている。そう言ってしまえばそれまでの状態だったが、自分にとってはそれは内面の防衛本能のように感じられた。うつ病に対する治療として認知を変えるというものがあるらしい。物事をどう捉えるか、その思考の癖なようなものを矯正することによって、心の病を治していく。しかし、自分の場合、その事態というのはどんな風に認知を変化させてみても最悪の事態だった。それは誰もいない家を出発するとき、暗い部屋に帰る時、持ち主がいなくなった玩具が転がっているのを目にするとき、そういった生活の実態が自分のどんな認知をも超えた圧倒的な現実としてあり、その中で生活しているためだった。どのような認知でも実態として存在しないものは存在しない。数カ月の生活でそれを理解した脳が、次の防衛本能として、考えないということを選択したように思えた。

この数ヶ月は不意に発作的な症状はあったものの、考えないという防衛本能によって生活そのものに思考を向けることができていた。

1週間前に届いたある連絡を受けて、事態は突然にグロテスクなほどの鮮明さで自分の思考を支配することを再開した。

症状が先か、思考が先が、そんな判別がつく前にとにかく苦しいという状況におかれている。

遠くで太鼓を叩く音が聞こえる。近くで子供の遊ぶ声が聞こえる。そういう些細な生活のすべてが、事態の結末と結びつき、最悪の未来を想起させた。

 

 

おそらくほとんど確実な未来として、自分は数ヶ月後に娘を失う。そして、娘は両親のどちらかを失う。

 

早くこの苦しみから解放されたいという気持ちと、しかしその解放は、そういった事態の結末ででしか迎え得ないという現実。

つまりこの苦しみからは自分が自分として生きている以上、永遠に解放されることはない。

そして娘もその苦しみの渦の中に突き落とすことになる。

 

 

そうなったとき、自分はこの世界を憎まずにいられる自信がない。

 

 

 

転職モラトリアム

転職活動は溜まりに溜まった辞めたい気持ちのリセットというのを聞いたことがある。わりとその通りだと思う。数年は勤続していたほうがいい、みたいな話はこの辞めたい気持ちがどのくらいの期間で溜まるのかを測っていて、ある程度勤続しているとその容量が人並みにはあるとされるんだろうなと思う。自分は1年も勤続しないまま転職の面接を受けていた。書類が通る。面接をする。現場責任者の評価はいい。最終で落ちる。今まで5回くらいあった流れ。なんだかもう恒例になってきていて、まあそりゃあそうだよなという不思議な納得感さえある。現場の責任者はフリーランスなど多数派ではない生き方に寛容な世代で、ぼちぼちフラットに面白がってくれる。しかし最終で出てくる役員となると話は違う。話は違うというか、世代が違う。道を外した者はその時代にも一定いたのだろうけど、そういった人たちが可視化されることが極端に少なく、可視化される機会といえば反社会的な行動だったりとんでもない大成功だったりするので、まあ見られ方としては意味通り変な奴と見られるんだろうな。変な奴というのは、集団行動ができなかったり、常識がなかったり、営利目的の組織にいるといろんなリスクがありそうな奴。聞かれる質問的にそんな感じなんだろうなと思う。なので、役員面接で落ちることに対しては不思議な納得感がある。

もちろん落ちた連絡をもらうとそれなりにショックで、2社めくらいまでは2日間くらい寝込んだ。最近でもそのメールを受け取ると、ああ失敗したなというショックはある。けっこうズシンと。1時間か2時間くらいグっとなる。そして、だったら書類も一次も通すんじゃねえよという気持ちになり、気付くと次の求人を探したり、やっぱり資格があった方がいいのかな、なんてことを考えている。失敗への慣れということで、とりあえずこの感情の動きは好意的に捉えることにしている。

今の仕事に不満があるのか考えてみる。特に思い当たることもない。給料はいいとは言えないけど、それなりにゆるく自由で仕事も楽だし人間関係も良い悪いをつけるほど関わる人がいない。週2日の在宅勤務ではYouTubeを見てうたた寝をしながら、最低限やらなきゃいけないことだけをやっている。そんな労働環境でどうして転職を考えるのだろう。どうして貴重な有給をとってわざわざ緊張しながら面接を受けるのだろう。そしてどうして不採用の結果にショックを受けるのだろう。

ある程度わかっている。たぶん。

見栄。俺はこんなところにいるべき人間じゃない、俺にはもっと能力があって、それが活きる組織があって活かせる上司がいて、本当の俺はこんなもんじゃない

だからやれることがなく、やりたいこともないのに、今の仕事をやめたくもないのに、志望動機なんてないのに、面接を繰り返すんだ。

不採用通知を受けた後の不思議な納得感は、自分で自分の体面を守るための惨めで汚い言い訳。そのことを悉く見抜かれているだけ。

 

結局、モラトリアムが終わっていない。

惨めな自分に折り合いをつける言い訳だけが達者になる。そのたびにまた惨めになる。その繰り返し。

 

5月末で29歳になった。

 

 

 

心臓という人格

心臓だけが自分ではないと感じる時がしばしばある。特に何か起こったわけでもないし、それによって感情は動いていないはずなのに、なぜか心臓だけが妙に緊張してちくちくと刺されるように痛くなる。普通に病気を疑ったことさえある。この前の健康診断の心電図でなにも問題なかったからなにも問題はないのだろうけど。平穏に過ごしたい。実際に目の前では平穏な世界がある。平穏ではないのかな。どうなんだろう。でも自分はとりあえず平穏だと思うことにしている。それでも心臓がそれを邪魔してくる。平穏でいたい自分も平穏と思いたい世界も、実際に痛みを伴って早まる心臓によってかき消されてしまう。苦しい。痛い。止まってくれ。いや、止まらなくてもいいからとりあえず落ち着いてくれ。幾度となくそう思った。

少しずつ自分にも他人にも興味が薄れ、少しずつ感情の動きもなくなってきた事実に心臓だけが孤独に対抗しているように感じる。そんなに頑張らなくていいのに。わかった気になっているだけかもしれない。自分の取り扱い方も世界の見方も、なんとなくわかってきた気になっているだけで、本当はなにも自分のことも世界のこともなにもわかっていない。そのことに心臓だけが気づいていて、それを伝えてくれているのかもしれない。感情が動いていないこと、今この状況を平穏と思っていること、そのことに対して心臓だけが違うだろうと言っている気がする。そうは言ってももうある程度仕方ないこともあるんだから少し諦めてほしい。

死にたいと思った毎日も感情が薄れていく最近も心臓は止まることなく、むしろ警鐘を鳴らし続けてくれていて、そのことにいつか感謝する日がくるのだろうか。いつくるかわからないいつかに向けて精一杯動き続けている心臓のために頑張ろうと思える瞬間がくるのだろうか。きっとその時は心臓のほうがもう疲れているのかもしれない。だとしたら、心臓のために明日から頑張ろう。健気に毎秒動き続けるこいつに報いてやらないと可哀想だ。

 

 

そんなこと思えるはずがない。

いつまでも

 

箱に押し込んだもの

家族や親子がモチーフにされたものは意外と街中に溢れている。モチーフにしたものというより、家族や親子そのものが街にたくさんいる。すごくたくさんいる。子供を保育園に送っていくお母さんお父さん、子供を自転車の後ろに乗せて走るお父さんお母さん。当たり前の光景。むしろ幸せな光景のはず。微笑ましいなと思っていた頃の自分も実際にそっち側だった自分ももういなくなってしまった。その環境に置かれた今、目に入ってくるこれまで微笑ましいと思った光景はなんともグロテスクに感じてしまう。グロテスクとは少し違うか。反射的に目を背けてしまう。目に入るその光景に対して自分が何かを思うまでのほんのすんでのところで、目を逸らしイヤホンのボリュームを上げて早足になる。直視できない。直視して頭がなにか考えてしまう前に違う何かで押し潰してしまわないと、本当におかしくなってしまうような気がする。気がするというのは、なんの根拠もない話ではなくてなく、目や耳で知覚したことが脳に到達するまえ、そのずっと前に心臓が反応してしまう。ぎゆ、ではない。パキ、でもない。ピキっとしてスーッとひっかかかれるような。針を何本か心臓にさされたような感覚になる。感情が暴れて全身に症状がでることは、それはそれで嫌なことなのだけど、それよりも心臓に直接チクチクと針を刺されていく感覚の方がずっと不快で辛い。

きっと世の中にこんな人は多いのだろうなと思う。一時の幸せを享受したものの、それを手放さなければいけない。その幸せだった一時に享受したものが大きければ大きいほど、それをなくしてしまった時の喪失感や条件反射で心臓に刺さる針の数も頻度も増えていく。信号で手を繋いで待つ親子。微笑ましかったその光景を見て今まっすぐに頭に浮かんでくるのは、やめてくれ。という言葉。見せつけようともしてない、もしかしたらすごく大変と感じてしまっているのかもしれない。そんな光景を目にして、やめてくれ。と思ってしまう自分に心の底から辟易する。妬ましいとか羨ましいとかそういう感覚ではない。かつて自分が当たり前のように享受していた幸せはもうここにはなくて、その孤独も大きな箱に入れて開けられないよういくつも南京錠をつけて奥の奥の方にしまっていた。それが容易く開けられて、夕方手を繋ぎながら散歩をしたこと、公園でお菓子を食べたこと、ご褒美にコンビニでアイスを買ったこと、もうしまっておかなければ心臓が破裂してしまいそうな光景が一気に心の中を占領する。苦しい。ただただ苦しい。この苦しさへの対処法はまだ見つかっていない。だから、ただ苦しいと思うしかない。

シルバーラックに貼られたアンパンマンのシールに目を留める。数秒動けなくなる。奥の方へしまったはずの箱やそこにつけたいくつもの南京錠はそれほど大きくもなければ強力でもなかった。

心臓に針が刺さる。痛い。

暗い部屋に響く小さな悲鳴。

 

 

何も思えない

学生時代は満員電車が嫌いだった。こんな状態で毎朝毎晩会社と自宅を行き来するなんて考えられないと思った。学生時代だけじゃない。学生が終わってもそう思っていた。ロボットのように駅を同じような恰好で同じような顔をして歩く人たちを見て、それを蔑むような気持ちも確かにあった。何が楽しいんだろう。自分はこうはなりたくない。当時は自然にそう感じてしまう自分に対して選民意識や優越感があるんじゃないかと嫌気がさすことが度々あった。あぁ拗らせているなあと。でも、きっとそうじゃない。そうなれそうもない自分の劣等感に向き合うよりはマシだったんだと思う。毎朝同じ時間に起きて同じ格好をして同じ場所へ行き同じことを繰り返す。自分には到底できそうもないことを数年、数十年と繰り返す人々と自分との間にある隔たり。その大きさを直視することは、自分の未熟さと向き合うことと同じだった。あぁ選民意識気持ち悪いなあと思う方がまだマシだった。

数年が経ち、自分がその人々と同じ毎日を繰り返すようになった。心身共に辛さはあったけど、それも少しすれば慣れてくる。満員電車で押し潰される。その時自分もまた誰かを押し潰している。自分が最悪だと思っていた満員電車を構成する一因に自分もなっている。すみません。申し訳なく思う気持ちと同時に、劣等感の隔たりを超えた達成感を抱く時期もあった。働くこと、それに付随すること。それら全てが苦手だと思っていた自分が、それを乗り越えて挑戦している。すごい。えらい。家族のために頑張っている。そう思っている時期は確かにあった。

しかし今はもうそれさえも感じなくなっている。何も思えない。本当に空っぽの伽藍堂みたいな自分を電車が運んでいくだけ。辛くもなければ嬉しくも申し訳なくもない。何も思えない。どこを見て誰を押し潰し、誰に見られ誰を苛つかせているのか。そんなこと一切考えなくなってしまった。こんなふうに鈍感になること、そして多数派として生きていること、それを過去の自分は成長と喜ぶかもしれない。でも、思えないんだよ。思わないんじゃなくて。嫌悪感や劣等感、達成感その他諸々、昔の自分だったらこの状況に対して数えきれないほどの感情が湧き上がっていた。それがいま、感情が形を持つ前にすっと消えてしまう。種のような結晶のようなものが浮かんでくるのを感じるけど、それを掬い上げる前にすっとなくなってしまう。疲れるんだろうな。感情を形にする脳はどの部分を使っているのだろう。その部分が疲れてしまったんだ。どこかわからないその一部が暴れ出し幾度となく苦しめられた。いい感情も悪い感情も、自分の心で受け止めきれずに他の場所に歪みが出る。動悸がして、手足が痺れ、眩暈がする。その度にすぐに薬を飲んだ。効き目が感じられなかったら2錠3錠と飲んだ。そうすると、感情を形にして全身に振りまいていた脳の一部が明らかに鈍化するのを感じる。その部分だけラップに包まれできるような感覚。もちもろん体にも力が入らなくなる。それでも感情に振り回されるよりよっぽどよかった。いや、良い悪いという話ではない、感情に振り回されないよう薬を飲まないと、そうしないと折れてしまうことはわかっていた。パキッと。だから薬を飲み続けた。用法も用量もよくわかっていない。でも、これしか頼る術がなくこうしていくことでしか生きていけない。ただ生きるためだった。

しかしそんな状況にも慣れてくる。薬でラップをかけていた脳の一部は薬がなくてもラップをかけたままになった。何も思えない。心のどこかで寂しささえ感じている。鈍感になって強くなるというのは違う。あの時最悪な感情に飲まれ早くなる鼓動と浅くなる呼吸の中で見た車窓からの景色や雨の色、タバコの味はきっと2度と感じることはできない。ほんの一粒くらいの切なさがある。それが今自分がなんとか感じられる本当に最後の感情なのだろうと思う。

ここまできてようやくあの時見たサラリーマンたちの表情を理解する。そのなかにある一粒の感情を大切に、今日も満員電車で帰路につく。

暗い部屋へと帰る。

ツケ

大学を卒業してもう5、6年になる。高校を卒業してからは10年くらいか。

大学入学で上京してきた自分は今の自分をどう思うだろうか。何かやり直してくれるだろうか。それとも、あーあーと思いつつ何もしないだろうか。きっと後者なのかな。雨の降る夜、会社帰りの駅を出るとふと思うことがある。どうしてこうなったのだろう。ダブついたズボンを引っ張り上げてシャツを入れ直す。上京していく自分をバス停まで送る車の中、泣きながら言葉を絞り出してくれた父は今の自分をどう見ているのだろう。10年。その間ずっと放置して、向き合うことから逃げ続けた自分の人間性が徐々に顕在化し、それが生活として、人生として自分に返ってきているのだろう。逃げ続けるにも根性がいる。逃げるということは、つまり逃げるということと向き合うことになる。逃げることにも向き合うことなく、その場凌ぎで転々としていたツケと今向き合っている。逃げ続けられなかった自分と。

手足が痺れる。呼吸が浅くなっているんだろうなと思う。それもこれまでのツケなんだと諦める。

この大きすぎるツケと向き合い続けられるだろうか。向き合い続けた結果に返済できるんだろうか。そのことにも逃げ出してしまうのだろうか。わからない。

ただ、折れてはいけないと、毎日それだけを念仏のように唱えながら過ごしている。ここで折れた時のツケはきっと大きい。向き合うことから逃げ続けた経験値として、なんとなくわかる。だから、折れてはいけない。

昼休みが終わるから仕事に戻る。

暗い部屋で思うこと

臆病な自尊心と尊大な羞恥心という言葉が山月記に出て来る。高校の時の現代文で読んだ。当時は意味がわからなかったし、そのあと山の中で虎になってしまうのも意味がわからなかった。まあ虎になるのは今でもなんの暗喩なのかピンときてないところはあるけど、ただ、臆病な自尊心と尊大な羞恥心という言葉は、なるほど自分の人生の失敗の理由が一言で示されていると、大学生の時に痛感した。

どこのどのタイミングかは覚えていないけれど、飲み会ではしゃぐこと、授業をサボってダーツに行くこと、異性と話すこと、アルバイトを楽しむこと、サークルでバーベキューをすること。なにかずれている、なぜなんなんだろう、わからない。楽しいと思われているものがなぜ楽しいのかわからない。みんながやりたいと思ってることをなぜやりたいのかわからない。

みんなが楽しんでいるのを斜に構えて揶揄することでその価値を下げたいのか。そこにうまく混ざれない自分を守っているのか。みっともないと思うことで、自分はそうでないと信じたいのか。そういったものは、自己防衛を通り越してもはや自分の人格そのものになってしまった。自分を守るために誰かを小さく揶揄する。誰かの楽しみを、幸せを、喜びを鼻で笑う。だっさ、と。それは自分の中に尊大な自尊心を作り上げた。人の没頭や熱中を嘲笑すればするほど、自分がその人たちよりも価値のある人間なんじゃないかと錯覚する。その錯覚のために他人の目を極度に気にするようになり、そして失敗を恐れた。あいつらとは違う。飲み会ではしゃいで馬鹿かよ。同化できない自分に対する劣等感の昇華として、周囲を揶揄し価値を下げると、自分が相対的に優れていることなる。そしてそのなんの根拠もない、あるはずのなかった優越感は挑戦や失敗をとことん怖がった。みっともない、ださいと思われたくないから。そうなるとあいつらと同じになってしまうから。それは即ち自我の崩壊だった。そんな気質で失敗から逃げ続けてもいつかは否応なく一斉にスタートライン立たせられる。社会は無情だ。いや、無情ではないかもしれない。ただ平等なだけ。

失敗する。大きく。何度も。その度に命が削られるのを感じる。でも、それは小さくて数少ない失敗なのかもしれない。尊大な羞恥心によってそう感じるのだと思う。恥ずかしいんだ。失敗が。みっともないと、あいつは無能だと思われるのが。

悩み、疑問、違和感、考えすぎな性分はすべて臆病な自尊心と尊大な羞恥心という言葉に帰着する。すっぽりと。そんなもの高校生に読ませてくれるなよ。

今日も失敗した。命が削られるのを感じた。

家に帰る。まっくらで誰もいない部屋。